第34話  「野合日記」秋保親友 U   平成16年11月28日  

幕末に書かれたと云う秋保政右ヱ門親友(アキホマサエモンチカトモ 庄内藩軍学師範400石、1800~1871)の「野合日記」の現代語訳の釣の部分を拝借してきた。釣の心得、釣の釣果、竹取の事など自分が思った事や感想等その時々多岐に渡り記されていた。

本年の6月に開催された致道博物館での釣の講演会の終了後に致道博物館に収蔵されている竿を振らせてもらえた。その中に秋保親友の竿が二本あり、その竿も振る光栄に浴した。講演会の出席者は彼の名前を知る人は少なく振って見る人は少なかった。彼の日記を見た限りでは、そんなに大物を上げたと云う記録はない。せいぜい黄鯛クラス(30cm前後から40cmの黒鯛)、30cmを超えるオオサヨリや大ウマズラなどの記録がある。

彼が作ったと云う磯ズレの傷が多い二間、二間半余の竿が二本、壇上の向かって右側の台の上に平野勘兵衛のケヅリ竿と一緒に置いてあったあった。手に取って見ると作りは武士が作ったと云うほどに、荒々しい仕上げで決して竿職人が丁寧に作ったように上手とは云えなまでも、それなりの造りの実用の竿である。竿自体は思ったほどの細身ではなく、堅く締まった白竹で作られていた。この竿は多少の大物が来ても竿の反発力で魚が、自然に手元に引き寄せる事が出来ると云う印象がした。竿作りも個人的に好き好きがあり、これが彼の竿の究極なのかとも思ったが、それにしては短すぎて黒鯛を釣るような竿ではない。どちらかというと二歳から三歳の黒鯛やドコハジメなどを釣る小物釣り用の竿であると感じた。それでも親友はこの二本の竿を余程お気入りだったのか、自分の銘を入れている。


竿に対する考え方は「竿に上中下の三品あり。その品に名竿あり、美竿あり、曲竿あり。其上上々や、細からず太からず、一節一弱なく、本ウラ惣躰にリンリンとしと釣り合いて生直堅竹年を経る事四、五歳、ウラ釣合いにあらず、胴してわりにあらず。陽中の陰、是を名竿と云う。執心にして得難きものなり。在人曰く名竿は刀剣より得難しと、宣也。天授にあらざれば高金に求めがたき故也。美竿は其名竿の延過ぎたるに以たり。是唯竿の手本と云うべきのみ。曲竿は堅竹にして矯めて賞すと雖(いえども)、霜霧に其生顕れて堪えずを云う。況や若竹においておや。論ずるに及ばざる也。しかるに昔人今の世の竿を観て胴しなりなりしして其嫌う。」と野合日記の序文、野遊魚鳥獲記に出ている。

親友の釣行は記録によれば分かるだけで文政3(1820)24回、文政4(1822)16回、天保6(1835)19回と云う事なっている。毎年20回前後の釣行である。釣に関する考え方は「磯釣りは別して心得あることなり。用心に怪我無しと云う事を忘れるべからず。・・・・小魚のために大切の身命を落とす、あに不覚悟ならずや。慎むべき第一なり」と日記にも出ているが、大身の武士らしく釣りは決して無理をせず、安全第一とした。この言葉は現代にも通用する言葉でもある。これは釣で命を落とした小室、鈴木の両名の釣での遭難に当たった時の日記である。

庄内では冬の季節風が吹き始めるこれからが、カンクロと称する冬の黒鯛釣りが本番となる。急な高波などであたら命を落とし事の無いようにしたいものだ。

 *親友の竿写真クリックで拡大します。